未だ国内に蔓延する歴史認識に関する誤謬を糺そう
- cordial8317
- 2024年7月9日
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昭和12(1937)年7月7日、支那事変(日支事変、日中戦争)の引き金となった盧溝橋事件(七七事変)が勃発した。「日中戦争は日本の侵略戦争だ」という認識が蔓延しているが、これは明らかな誤謬であり無知と自虐史観に因るもの。歴史というのは国家の一大事であり、誤りを正さず放置することは赦されない。
我が国は、1901年9月7日に調印された列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書(北京議定書)に基づき、在留邦人保護の為に軍隊を駐屯させていたのだが、盧溝橋に於いてその日本軍を攻撃してきたのは中国共産党(毛沢東軍)の方だった。上海に於いても、日本人保護の為に合法的に駐留していた日本海軍陸戦隊に、正規軍10万人を動員して一方的に攻撃を仕掛けてきて「上海戦争」は本格化したが、どちらの事件も中国共産党が仕掛けた策謀であり、つまり侵略者は我が国ではなく中国共産党ということになる。
以前、田母神俊雄元幕僚長が発表した論文(アパ論文)には、「米英蘭などとの戦争は、どう見ても日本の自衛戦争であり、またアジア開放の戦争であったと思っている人は多い。しかし、中国との戦争については中国の本土に軍を進めたのだから侵略だ、と思い込んでいる人が意外に多いようだ。しかしこれは完全な間違いである。条約に基づいて他国に軍隊を駐留させることは国際法的に全く合法であり、侵略ではない。日米安保に基づき日本に米軍が駐留しているのは(好き嫌いは別として)侵略ではないのである。逆に合法的に駐留している米軍を自衛隊が攻撃して戦争になった場合、それが日本国内で戦われたとしても、侵略者は日本ということになるのである」と、「中国」という言葉が気になるが実に分かり易く支那事変(日中戦争)を説明している。
支那事変勃発前はどういう状況だったかというと、支那の新聞の大勢は「対日主戦論」が幅を利かせ、その主戦論には過激な知識人や学生・都市市民、中国共産党、地方軍閥の3グループなどが煽る。共産党と軍閥は知識人などに主導された過激世論を味方として、蒋介石政権に対しての立場を有利にしようと狙っており、特に共産党は「反日」を最大の政治的武器としていたことは歴史的事実で、その「反日」は現在も引継がれている。
昭和6年(1931年)11月には、江西省の瑞金に成立した中華ソビエト共和国が、毛沢東の名により日本に対して「宣戦布告」を発している。この様に何時何処で日本への攻撃が起っても不思議ではない状況の下で盧溝橋事件が起きた。 実は共産党にとって当時の状況は深刻で、この状況を打破しようと張学良・楊虎城らが蔣介石を拉致監禁。この「西安事件」を機に蒋介石は共産党攻撃を中止し、共産党と協力することを約束した。
その後、蒋介石は共産党に対し次々に厳しい条件を突き付けた。この窮地に大博打を打って出たのが毛沢東率いる共産党だった。国民党軍の中に大量に潜り込ませていた共産党軍に反日を煽り、それに紛れて7月7日22時40分に発砲事件を起こした。発砲事件の翌8日に共産党は、中央委員会の名で長文の電報を蒋介石や全国の有力者、新聞社、団体に発信している。実は日本軍は、8日午前5時30分に初めて反撃を開始した。当時の通信事情からしても8日に初めて反撃されたのに、8日に公式電報を作成し発信することなど絶対的に不可能。
その証拠が存在する。支那派遣軍情報部北平(北京)支部長秋富大佐は、「事件直後の深夜、天津の特殊情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中共軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受。そこには「成功した」と3回連続反復送信していたという。その時は「成功した」との通信が何を意味するものか解らなかったのだが、今ではこの反復送信が「盧溝橋事件」の中国共産党犯行説の明らかな証拠とされている。つまり、謀略が成功したことを延安に報告し、延安では電文作りが行われたのだ。
盧溝橋事件は中国共産党が起こしたことは今や100%明らかな事実であり、「日中戦争は日本の侵略だった」などという中共や国内の共産主義者らのプロパガンダをいつまで信じ続けるつもりなのか。また、こうした共産ゲリラの策謀を忘れ去り、中国共産党結成100年に祝意を表する媚中派政治家どもは恥を知るべきだ。
ソ連軍との「ノモンハン事件」も同じで、共産党のプロパガンダを鵜呑みにしている。昭和14年(1939年)5月11日、蒙古との国境ハルハ河を越えて蒙古兵が満州国側のノモンハン地区に侵入する。日本軍はこれを撃退したが、蒙古軍は駐留ソ連軍と共に再三に亘り侵入を繰り返した。一度は撃退されたソ連軍だったが、大量の戦車を含む大兵力を動員してハルハ河を越えて侵入し、ここで大激戦が展開されることとなった。
8月20日には、ソ連軍は10万近い軍を動員し、2万人弱の日本軍に対し総攻撃を仕掛け、日本軍は大打撃を被ったというのが、日本人の信じる「ノモンハン事件」である。歴史探偵を自任する半藤一利や司馬遼太郎もそうだし、五味川純平などはその最たるもので、困ったことにソ連の公式発表した日本軍の損害は52000人、ソ連軍9284人との数字を真に受けて歴史を語っている。死人に口なしだが、誤りは正さねばならない。
支那事変の2年後に、満州と蒙古の国境で突如この様な激戦が何故に発生したのだろうか。実はこの一年程前にソ連は、ソ満国境の張鼓峰で侵入事件を起こしていて、この時には日本軍はソ連側に5500人の大打撃を与えて撃退した。だが、この時、日本軍がソ連領に侵入して来ないことをスターリンは見逃さなかった。ソ連がナチスドイツに勝利出来たのは、この時のスターリンの判断に拠るところが大きい。歴史に「もし」は無いが、あの時、日本軍がソ連に更なる猛攻を仕掛けていれば、ドイツと共にソ連共産党を打ちのめしていただろう。
希代の悪党で戦略家のスターリンはヒトラーのソ連攻撃を予測し、東側からの脅威を除く為に日本と支那とを戦争に引き込むことに残力を注ぎそれに成功したということだ。こうしたことも第二次世界大戦が共産主義による策謀だったという証左の一つであろう。「盧溝橋事件」や「上海事件」ではそれに成功したが、予想外に日本が強い。そこで日本がどう出るか偵察したのが「鼓張峰事件」と「ノモンハン事件」だったのだ。
ノモンハン事件で日本との「停戦合意」が成立した翌日の9月17日、スターリンはポーランド侵攻を命じ、ソ連軍はポーランドに侵入を謀った。 また「ノモンハン事件」は共産主義者によって悪宣伝に使われた。「貧弱な装備で旧式戦法の日本軍が、ソ連の進んだ機会化部隊に完膚無きまで叩きのめされた」という、日本軍を貶す虚偽宣伝であるのだが、日本人の多くは半藤らの影響もあり未だその嘘を信じきっている。
1991年のソ連崩壊後に情報公開されて判ったことは、ソ連軍の損害は26000人、日本軍18000人、半藤や五味川らの歴史書とは全く違い、実際にはソ連軍の損害は日本軍の損害を大きく上回っており、然も日本軍はソ連の戦車・装甲車800両、航空機1673機を撃退している。10万近い大兵力を動員した側は損害は少ないものだが、結果はその逆だったということ。つまり、如何に日本軍が強かったかということの証しであろう。
戦争の発端となったこうした事件の「事実」を知れば、自ずと真相は白日の下に曝される。だが悲しい哉、日本人というのはたった一度の敗戦からこうした歴史の事実すら知ろうとせずに現実逃避を続けている。歴史と言うものは為政者に都合の好い様に作られるものなのだ。「中国四千年」の歴史にしろ、朝鮮の輝ける歴史にしろ、かの国での歴史とは、新しい王朝が如何に正当性を持つかという謂わばフィクションに過ぎない。
我が国の政治家は歴史認識を問われると「歴史は歴史家に任せる」などとキレイゴトを言う。だが、それは言い方を変えれば議論を避けるということであり、現実逃避や責任回避と同義である。彼らにとって優秀な歴史家というものは、自国の正当性を如何に論じられるかだけで、捏造してでも真実と言い張れるかなのだ。
捏造には全力でカネで買収し、銅像や記念館を建て既成事実化するのが常套手段である。「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」という大嘘も、我が国が論拠を示し毅然と反論して行かなければ、時代が経つにつれ真実になってしまうだろう。 歴史は歴史家が考えれば好いというものではない。歴史の問題は国の存亡に係わる一大事であり、いつまでもプロパガンダや自虐史観という洗脳の留めなき淵に漬かり込んでる場合ではない。
ザ・右翼ジャーナル社々主 佐久間五郎
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