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「海軍記念日」である5月27日は様々な想いが我が胸に去来する

  • 執筆者の写真: cordial8317
    cordial8317
  • 2024年5月27日
  • 読了時間: 7分

5月27日は「海軍記念日」。明治38(1905)年5月27日、日露戦争に於ける海上での戦い「日本海海戦」が行われ、東郷平八郎元帥率いる連合艦隊がロシヤのバルチック艦隊を撃滅し勝利を収めた日に起因する。


 明治37(1905)年2月10日、ロシアに対し敢然と宣戦布告した。極東の小国であった日本と、当時、世界最大の軍事大国ロシアとの民族の生死を賭けた戦いを世界の誰もがロシアの勝利を疑わなかった。


 明治38年3月1日から日露戦争最後の陸上戦「奉天会戦」が大山巌陸軍大将指揮の下行われ、同月10日、勝利を収めた。この成果を称え、翌年、政府は3月10日を「陸軍記念日」として制定した。


 日露戦争開戦前、世界の軍事専門家や学者の中で、日本という極東の小国国が当時世界最大の軍事大国と称されたロシアに勝利すると予想した者は一人もいなかった。結果として「日本大勝利」の報は、極東小国日本の存在を世界に知らしめ、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させたのであった。


 十五世紀の大航海時代以来、白人に因る世界制覇の滔々たる流れがアジアにも押し寄せ、江戸幕府も対応に苦慮する。我が国は迅速に明治維新の大業を成し遂げた。その後に起きた日清戦争と日露戦争で我が国が勝利したことに拠って世界の勢力地図が大きく変化し、全世界の有色人種に強烈な影響を与えることなった。


 インドのガンジー、ネール、ビルマのオッタマ・ミール、フィリピンのリカルテ、ベトナムのファン・ボー・チャウ、エジプトのムスタファ・カミール、トルコのケマル・パシャ等等、その影響は挙げれば限が無い。


 実に1年半に及ぶ大国ロシアとの戦いは、我が国が奇跡ともいえる劇的勝利を収め、極東の小国に過ぎない「日本」という存在がアジアのそして世界の有色人種国の希望の星となったのだった。


 日本全国民が決死の覚悟を以て開戦に踏み切った日露戦争の勝利は、結果として欧米列強に我国の地位を認めさせることとなり、幕末以来からの懸案事項であった不平等条約、つまりは明治維新の大義でもあった「治外法権」と「関税自主権」という二つの不平等条約の克服を達成することになったのである。


「治外法権」は日清戦争後に克服したが、懸案であった「関税自主権」の回復を実現することで明治維新は成就し、真に独立を回復することが出来たのである。また、日露戦争の勝利は、欧米諸国に植民地にされていた民族の独立心を掻き立て、後の大東亜戦争後の植民地の解放に繋がったのは言う迄もない。


 日露戦争前、ロシアに占領・弾圧されていたフィンランド、トルコ、ポーランドの国々や、有色人種として差別されていた民族に、「日本勝利」の報は国家と民族の存在を決定的に変える影響を齎したのである。


 韓国は事在る毎に「韓国併合」を批判するが、日清戦争後に韓国も独立すれば好いものを独立の意味を分かることなく、あろうことか南下政策を謀ったロシアに協力する。こんな民族が独自の力による近代独立国家建設の道など在り得ない。彼らに巨大ロシア勢力の排除など到底無理だったことは近代史を学べば解ることだ。


 その意味では寧ろ、日本に拠る大韓民国保護の必要性を認め、日本と一体となった上で、民族の自立発展の道を模索しようとした「日韓合邦派」の主張の方が現実的だったのである。今や、真の愛国者だった日韓合邦派やその子孫は、事後法でもある「親日分子取締法」に拠って売国奴として糾弾され続けている。


 日韓併合は正に避けては通れない歴史でもあったのだが、自大思想は改められず、反日国家に成り下がった韓国に、アジア近代史や道理を説いたところで認めることは無い。歴史の真実から目を背け、日韓併合や日本を批判することでしか誇りと主体性を維持することが出来ない幼稚で可哀想な民族でもある。


 日露戦争終結から15年後、パリ講和会議に於いて日本は国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れる提案を行うも、米国大統領ウイルソン議長に「全会一致が原則」との詭弁を弄され拒絶されてしまう。


 結局、日露戦争が齎した歴史的課題である「人種平等の原則」の本格的実現は、大東亜戦争後に漸く実現し、その歴史的大使命が果たされることとなるのである。我が国は敗れはしたがその大義は達成したのだ。


 大東亜戦争後、占領政策によって訳の解らぬ「平和主義」や「戦争=悪」といった短絡的思考が常識化しているが、単純に「戦争か平和かを選べ」と問われれば、誰でも「平和」を選ぶに決まっているだろう。


 然し乍ら、戦争とは国際法上認められてる行為であり「悪」ではない。米英は「戦争とは政治の継続である」と教え、ドイツでは「戦争とは別の調停手段を伴う政治的な取り引きの継続である」と教える。


「戦争を誘発する大きな原因の一つはアンディフェンデッド・ウェルス(無防備の害)だ」とは三島由紀夫。「平和」を口にし、軽々しく「戦争反対」を訴えている連中こそが戦争を誘発する最大要因となるのだ。


 国家間の紛争が、武力の行使なしに話し合いだけで解決されるのならばそれに越したことはないが、国際社会に於いては、平和的解決が話し合いだけで解決されることは殆んど無いのは歴史が証明している。


 戦争を放棄し、平和的解決や非軍事的措置を採った方が遥かに犠牲者も多く、非人道的な解決になってしまう場合が多く、「戦争=悪」であるという短絡的な思考こそが無防備の害であり、戦争を誘発する大きな原因となる。幼稚な平和主義こそが、寧ろ暴走を招き戦争を招き寄せることに為り兼ねないのだ。


「日本国憲法」の前文に在る「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」というのは「念仏平和教」そのもので、第九条の武力に因る国際紛争の解決放棄を盲目的に信仰する状態こそが異常なことと自覚せよ。


 戦後の日本人は「基本的人権の尊重」などと、国内に於いては権利を過剰に主張し続けているが、国際社会に於いて国家の権利を主張せずに黙り込むというのは、余りにも論理の整合性に欠けている。


 北朝鮮の国家意思に因る日本人同胞の拉致に対して何ら奪還する手立てを打たず、我が国の領土をロシアや韓国に不法に占拠されている状況から脱ししきれない元凶は平和主義と基本的人権を謳う日本国憲法に在る。


 尖閣諸島や沖縄を併呑しようとする国が存在している中で、指を銜えて傍観していることが果たして独立主権国家と言えるのだろうか。今こそ、明治人の気概に倣い祖国日本の独立と再建を果たさなければならない。


 余談ではあるが、今日5月27日は亡き親父の命日でもある。父は昭和3年生まれ、成績優秀乍ら農家の実家は赤貧で末っ子の父は進学は叶わず、尋常高等小学校を卒業すると15歳で海軍に入隊し、横須賀海軍工廠で大日本帝国海軍軍人としての人生が始まった。その後、土浦の予科練を経て17歳の時に終戦を迎える。


 終戦後、想い出の地である神奈川県相模原の地で土木作業員として従事し開業資金を貯め、数年後、帰郷し、古着などを扱う「相模屋衣料店」を起業した。その後、政治に興味が湧き町会議員などに関わったのが悪いのか、それとも親父の放蕩が原因か、昭和40年代に数千万の借金を背負い倒産の憂き目に遭う。


 高額負債にもめげず、何処から聞き齧って来たのか、「これからはカ(カレー)・ソ(ソバ)・ラ(ラーメン)時代だよ」と言い放ち、当時は珍しかったラーメンを提供しようと「相模屋食堂」を開店する。


 因みに親父はラーメン修行はしていない。二本松市の製麺所の社長にラーメンの作り方を聞いて、道具を揃え、仕込みの練習もそこそこに一週間後には店を始めたという。この度胸とセンスは驚くしかない(笑)


 両親の作るラーメンは仕込みや仕事が丁寧だったのでホントに美味しかった。屋号の「相模屋」という名前を見れば、横須賀や相模原への思い入れが深かったことが分かるというもの。郷土に帰還後は4人の子供を育て、また町会議員を5期務めるなど地方自治や郷土の発展にも寄与するも、志半ばで幽明境を異にした。


 ホント破天荒なオヤジだった。今思えば、20代での起業のことや軍隊時代の思い出を、酒を酌み交わし乍ら聞くことがなかったのが返す返すも悔やまれる。海軍軍人であり、何事にも厳しくも優しかったその父の命日が「海軍記念日」というのも不思議な縁を感じ、決して忘れることはない。南無大師遍照金剛。合掌。


 ザ・右翼ジャーナル社々主 佐久間五郎

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