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明治天皇の思し召しに拠り創建された靖國神社の在り方を真剣に考えなくてはならない

  • 執筆者の写真: cordial8317
    cordial8317
  • 2024年4月21日
  • 読了時間: 7分


 靖國神社の春季例大祭が21日から行われる。本日は清祓の儀、明日は当日祭、第二日祭と続く。終身正会員でもある愚生は第二日祭に招待されるが、慢性的不如意と出不精が重なってここ10年程は参列していない。


 保守派や愛国陣営から総理大臣の靖國神社参拝を熱望する声が絶えない。抑々、総理及び国務大臣の参拝は現憲法第20条違反に抵触する行為でもある。閣僚が参拝すると当事者や官房長官らが頻りに「個人的参拝」を強調するのも、「宗教法人への参拝は現憲法に抵触する」との認識を共有しているからに他ならない。


 靖國神社を語る際には、所謂「A級戦犯分祀論」なる声が聞かれるが、この分祀論も同じく靖國神社側への政治介入並びに威圧行為であり、憲法第20条違反に問われるのは最高裁の判例が示す通りである。


 最近では20条に抵触しない様にと、天皇陛下の「御親拝」を理由を述る議員がいる。自民党の石破茂や国民民主党から除籍された前原誠司らがその代表格である。「陛下が参拝出来る(本来ならば御親拝遊ばされるというべき)様に、靖國神社側が自ら静謐な環境を作ることが望ましい」などと、国民を誑かしている。


 静謐な環境整備には異論はない。だが「A級戦犯分祀論」という政治介入や威圧行為には違和感を覚えるし、靖國神社側が分祀論に応じることはない。神道というのは、例えば一つの神霊を分霊(分祀)したとて、元の神霊はそこに存在するというのが神霊観念であり、 分祀論が如何に支離滅裂か理解出来よう。


 我が国に「戦犯(戦争犯罪人)」はいない。第16国会の議決により「戦傷病者戦没者遺族援護法」が改正され、それを以て法的に復権されている。連合国側が定めたA(class-A war criminal)、B、C級の区分に関係なく、刑死・獄中死された方は「法務死」と称され、靖國神社では「昭和殉難者」として御祀りしている。


 総理や政治家らが参拝することで靖國が騒がしくなるなら、政治家なんぞ靖國にかかずらって欲しくはないというのが正直なところ。千鳥ヶ淵墓苑を米国のアーリントン墓地の様に造り直し、国立戦没者墓苑にして政治家なんぞそっちに参じれば好い。それでも多くの国民は靖國神社に詣で英霊に感謝の誠を捧げるだろう。


 首相の公式参拝は当然のことであるが、現憲法下でそれが赦されていないのならば控えるべきだとは思うし、首相の公式参拝を合法化するならば、靖國神社の宗教法人格を外し、国家で管理すれば済むことだ。


 靖國神社は、総理大臣より、陛下の御親拝こそが大事であり、御親拝拠って英霊は安らかに眠れるのである。愚生は常々、本殿横の「鎮霊社」なる死者の選別も見直すべきだと思っている。我が故郷の二本松藩や会津藩は「朝敵」と断じられ続けているが、抑々「朝敵」なんていう言葉はない。我が祖先は「東軍」である。


「鎮霊社」は、幕末の嘉永6年以降、戦争や事変に係わり散華するも本殿に祀られていない日本人の御霊と、同時期以降の世界の戦争・事変に係わって戦没した全世界各国全ての戦没者の御霊を祀る社である。「朝敵」と蔑視され続ける方々の名誉の恢復を図ることこそ大事であり、死者の選別は日本人の死生観にもそぐわない。


 世界のどんな国も「英霊」には最大の名誉が与えられている。だが、悲しい哉、我が国はそうした護国の英霊への尊崇や名誉という当たり前のことが憚られている。この事実こそが「東京裁判史観」の最大の弊害でもある。靖國神社の成り立ちを考えると、明治開国時の長州閥の施策にも疑問を呈さざるを得ない。


 靖國神社は明治2年、明治天皇の思し召しにより、「東京招魂社」として建立された神社である。その合祀対象は、明治2年7月1日、右大臣・三条実美が参拝し、奉読した次の祝詞に明示されている通りである。


「八十日々はあれども、今日の活く日の足る日を祭日と定めて、祭らしめ賜ふ去年今年、皇軍に死れる輩の靈の前に白さく、汝等は靈ちはふ神の御代より樛の木の彌繼々に天下知し食しぬる我が天皇の大御代と共に久しく言繼ぎて、臣たる人の鑑となす押日命の言立ての、海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍、大王の上にこそ死なめの其の事業を今の現に取り行ひて、所は變れども心は一に、皇軍に役立して賊徒等を討たむる其の戰に痛手負ひて命果てぬる輩なれば、上も下も憐の靈よ尊の靈と言ひ思ひ哀しみ畏み祭る、此の祭を受け辱み、千世萬つ世、天翔りて動かず、變れず、大御代の御爲と爲らむ靈とそ思ひ慕ふになむ、吾が身其の時しも監察使の勅を奉りて、此の吾妻に來たりて、東北の軍事をも親しく聞、其軍人の難苦し趣をも知りにし事なれは、今其の事共を思ひ出て、殊更に哀しく、殊更に慕しく思ひて、今此の祭の場に詣り來て拜み齋く事になむ、輔相從一位右大臣藤原朝臣實美、明治二年已巳七月朔日」 として、天皇が統率する軍隊(皇軍)に限られてしまった。


 この三条右大臣の読んだ祭文の原則がある限り、西軍は「皇軍」であり、東軍に対する「賊軍」という汚名が雪がれることはない。会津藩士や白虎隊、我が故郷の二本松藩士や二本松少年隊、西南戦争で自決した西郷隆盛ら所謂「賊軍」の御霊は本殿左の「鎮霊社」に祀られてはいるが、例大祭の期間は閉門されている。

 長州閥の謀で創られた靖國本殿より「鎮霊社」の現実こそが、宗教的な敬虔さと神道の教えを顕している様に思う。戊辰の役(戦争)では「西軍」と「東軍」は干戈を交えたが、「皇軍」という名の「官軍」と「賊軍」が戦った訳ではない。「賊軍」とは、維新後、長州閥の明治新政府によって作られた造語である。


 明治9年6月2日、畏くも明治天皇は、灯台巡視船であり御召し船である「明治丸」で、東北・北海道へ約50日間に及ぶ巡幸に臨まれた。横浜港から船でいわき港へ。馬車で、福島県郡山、宮城県仙台、岩手県、青森県と北上、次いで明治丸で津軽海峡を渡り、函館を経て三陸沖を海路戻るというコースを辿っている。


 明治天皇が巡行を終え、横浜に帰港遊ばされた日が7月20日であり、これが「海の日」の謂れである。今や海の日は、左翼陣営が謀ったハッピーマンデーに組み入れられ「海の日」の謂れを知る国民は殆どいない。


 明治天皇が、東北・北海道への巡幸に御臨み遊ばされた目的は、賊軍の汚名を着せられ、戊辰戦争に敗れて以降、艱難辛苦の日々を送っていた人々を、明治天皇が慰撫し激励する為に他ならない。この間、東北の人々は御巡幸の先々で奉迎した。 この巡幸を以て、逆賊も朝敵もなく一切の蟠りも無くなったのだ。


 靖國神社が建立されて未だ7年ほどのことである。明治天皇の東北・北海道巡行後に、三条実美の祭文を見直していれば靖國の在り方も違っただろうが、長州閥の明治政府は傍観を極め込み現在に至っている。


 朝敵を鎮霊社に祀ることと、朝敵を本殿に祀ることと、どちらが現代に即して、天皇(すめろぎ、すめらぎ)が顕現される道なのであろうか。未来永劫「死者の選別」をした儘で好いとは思えない。「国靖かれ」と願って亡くなられた方々は別に西軍の戦没者だけではない。賊軍と蔑まされ続けてる東軍の戦没者も同じ想いだ。


 靖國神社は「宗教法人」となっているが、前述した通り、GHQが国家と神道の分離を謀った「神道指令」下での、靖國神社の護持に苦慮した当時の関係当局に拠る「緊急避難行為」であり、実態は宗教ではない。


 宗教というのは、新興宗教に見られる様に「教祖・経典・布教活動」の三要素を必須不可欠とする。だが、靖國神社にはその一つも無く、唯、祀りの様式を日本古来の神道に則って行っているに過ぎない。


 世界情勢が変わりつつあり、アジア近隣に於いても危機感は拭えず、紛争や戦争という一旦緩急が在った場合には自衛隊員の犠牲は避けられない。自衛隊員が国難に殉じ乍ら、三条実美右大臣の祭文の原則である「天皇が統率する軍隊(皇軍)」を厳守することに拠って、皇軍ではない自衛隊員を祀ることが不可能となるだろう。


 憲法改正は第九条ばかりが論じられ、自衛隊を違憲状態の儘で放置することがあってはならないとの声を聞く。当然の主張ではあるが、国防の一翼を担う自衛隊員は国軍であり、皇軍であるとの認識を共有すべし。


 靖國神社への総理大臣及び閣僚の参拝を実現させるには「宗教法人」を見直すことが肝要であり、先ずは靖國神社の宗教法人格を外すことから進めるべきだろう。更に国家護持を図るには、鎮霊社という死者の選別を解消することだ。明治天皇の思し召しに拠り創建された靖國神社の在り方を真剣に考えなくてはならない。


 ザ・右翼ジャーナル社々主・佐久間五郎

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