大君に 仕えまもらん 一條に あつまり徹せ 阿まつたみくさ(相沢三郎)
- cordial8317
- 2024年4月3日
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神武肇国から続く我が国の長い歴史を顧みれば、時代の陋習を打ち破らんと「大化の改新」や「建武の中興(新政)」、そして「明治維新」という三つの大業が成し遂げられた。「維新」とは、幕末の思想家・藤田東湖が示した「大義を明にし、人心を正さば、皇道奚(いずく)んぞ興起せざるを憂えん」こそが真髄である。
昭和11年2月26日、安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次ら青年将校は、総勢1483名を率いて「君側の奸」「尊皇討奸」を掲げて昭和維新を蹶起するに至る。
大日本帝国陸軍内で「皇道派」といわれた彼らのその行動の柱となったのが国家社会主義者・北一輝の「日本改造法案大綱」であるが、この二・二六事件の伏線になったものが「相沢事件」とも言われている。
「相沢事件」とは、昭和10年8月12日、陸軍中佐の相沢三郎が陸軍省内で軍務局長・永田鉄山を刺殺した事件である。相沢は明治22年、福島県白河町(現白河市)生まれ。大正7年、歩兵第4連隊から台湾歩兵第1連隊付に移り大尉に進級、同年9月陸軍戸山学校教官に就任する。剣の達人として知られる人物でもある。
その後、陸軍士官学校付、歩兵第13連隊中隊長を経て、昭和2年少佐進級と共に歩兵第1連隊付として日本体育会体操学校(後の日本体育大学)に配属され学校教練を担当。昭和8年陸軍中佐となるも昭和10年8月12日、永田軍務局長を刺殺し、翌軍法会議に於いて死刑判決が下され、代々木衛戍刑務所内で銃殺刑に処される。
陸軍内は当時、高度国防国家を目指す「統制派」と、天皇親政を理想とする「皇道派」の対立が激化していた。皇道派の相沢は、同派の教育総監・真崎甚三郎が更迭されたことを理由に統制派の中心人物だった永田の刺殺に至る。死刑執行前、相沢は同じ東北出身で学兄でもあった陸軍中将・石原莞爾の下へ書を託した。
「大君に 仕えまもらん 一條に あつまり徹せ 阿まつたみくさ」
「かぎりなき めぐみの庭に 使えして ただかえりゆく 神の御側に」
皇道派青年将校に共感する相沢陸軍歩兵中佐が惹起した「相沢事件」が二・二六事件の伏線になったということは紛れもない事実で、相沢事件の半年後、二・二六事件が蹶起された。「蹶起趣意書」は次の通り。
謹んで惟るに我が神洲たる所以は
万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ
遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。
この国体の尊厳秀絶は 天祖肇国神武建国より明治維新を経て
益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。
然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣にし
至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して
塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す、
所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。
倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける
統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件
或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は
最も著しき事例にしてその滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。
中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、
相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、
而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として
私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。
露、支、英、米との間一触即発して
祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕せしむは火を賭るより明かなり。
内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し
稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして宏謨を一空せん。
恰も第一師団出動の大命渙発せられ
年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、
将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。
君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし
臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、
茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し
国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神洲赤子の微衷を献ぜんとす。
皇祖皇宗の神霊冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。
昭和拾壱年弐月弐拾六日 陸軍歩兵大尉 野中四郎
この二・二六事件に唯一の民間人として加わり、「群衆指揮等」として死刑に処せられた渋川善助という思想家がいる。渋川もまた相沢と同じ福島県人である。「群衆指揮等」とは現在の「内乱罪」だろうか。事件に参画していない民間人が何故に死刑に処せられたのか。善助の扇動を警察が殊更に恐れたからだろう。
福島県会津若松市七日町出身。会津中学校、仙台陸軍地方幼年学校を経て陸軍士官学校予科に進み、摂政殿下であった裕仁親王(昭和天皇)に御前講演を行うほど成績優秀だった。だが、士官学校卒業直前に理不尽な理由から退校処分となる。その後、明治大学専門部を経て明治大学政治経済学部に入学することとなる。
大学に入学後、善助は、錦旗会、興亜学塾、敬天塾、皇道維新連盟などの民間愛国団体と関わり、国家革新運動にのめり込んで行く。大学を中退後も国家主義運動に熱心に打ち込み、皇道維新塾の塾長となった善助は、杉田省吾、西田税らと「維新同志会」を結成し、二・二六事件に突き進んで行くこととなる。
群衆指導罪で逮捕された善助は公判調書で「私は会津藩に生まれた関係にて、祖父母も祖父も明治維新当時の汚名を冠せられたることを甚だ残念とし、幼時より蛤御門の討伐のことや白虎隊の武士らしき忠義ぶりなどを聞かされ武士的精神が自然に養われて居りました」と供述している。正に会津人の鑑である。
「茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し、国體の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神洲赤子の微衷を献ぜんとす」との大義を掲げて維新を目指した皇道派青年将校のその崇高な志は尊敬に値する。
渋川が少年時代に過ごした部屋は、三島由紀夫が「憂国の間」と名付け、会津若松市の「渋川問屋」内に現在でも保存されている。渋川問屋は料理も美味いと評判で、愚生も県内に住んでいながら未だ訪れたことは無い。いつの日か友人らと宿泊し、談論風発、杯盤狼籍、大破轟沈するのが愚生の細やかな夢でもある。

二二六事件に参画した将校らは、中央と地方の貧富が露わになり、東北地方を始めとした貧農の娘らが身を売らざるを得ない状況を憂いて惹起した一面もあったことを忘れてはならない。結果的には「反乱軍」と断じられ処刑されはしたが、彼らの尊皇精神と憂国の至情は決して消えることはない。すめらぎいやさか。
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