右翼人に限らず何処の世界もインチキばかりが幅を利かす昨今ではあるが
- cordial8317
- 2024年4月3日
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国士舘大学時代に行動右翼のパイオニアを自任する防共挺身隊(以下防挺)に入隊。防挺といえば、戦後、大日本愛国党と並び行動右翼として、戦後の右翼・民族派運動に大きな役割を担ってきた団体である。
防挺は、初代福田進総隊長の国会議事堂前共産党員らへの「糞尿事件」も有名だが、三菱重工でのべ平連との乱闘や日露漁業株主総会での「糞尿事件」などその活躍は凄まじく、「総会屋右翼」としても有名だった。
学生時代には株主総会に借り出されては派手な背広を着こんで「異議なし!」「議事進行!」と叫んでるだけで小遣いが貰えた。約3時間ほど拘束され、日当1万円はオイシイ過ぎるバイトだった。最初に連れて行かれたのは「アンリツ電気」だったっけ。将来の活動費は総会屋で工面すれば好いと思っていた。
同級生らが次々と就職先が決まって行く中で、就職活動もせず、学業も疎かにして右翼運動に専念していた。だが、そんな大学4年の秋、思いもよらぬことで右翼としての岐路に立たされる。総会屋対策として「商法」が改正され、ナント「一株株主」では株主総会に出られなくなってしまったのだ。
福田総隊長から通達が下り、防挺は「防共グループ」「防人の集い」となり、各支部が単独団体になり独立採算を余儀なくされた。所属していた羽田支部も「報国社」に名称変更し、間もなく支部長が脱会した。
隊員は土木作業員のバイトをしたり、働き出したが、愚生は「高校も大学も土木工学科を卒業しながら何で今更土方にならねばならないのか」との忸怩たる思いで、一念発起し帰省し、団体を立ち上げ活動をするに至る。爾来、働きもせず貧乏に呻吟しながらも正統右翼浪人としての生き方を全うしているつもりでいる。
そんな愚生が政治に興味を抱いたのは中学時代だった。親父は食堂を経営しながら町会議員をやり、また衆議院議員(故・天野光晴)の秘書の様な事をやっていたそんな影響もあるのだろうが、担任、副担任とも日教組だった事が大きく影響している。その副担任は退職後に日本共産党公認の市会議員になった。
担任は日教組でも武闘派の高橋寅彦(通称・寅さん)、副担任は元二本松市議会議員で日本共産党の遠藤四郎。この寅さんと遠藤とは、成人してから酒を飲みながら政治談議をしたことがあったっけ。
「五郎、オメエは天皇制は絶対だと思ってんのか」と遠藤。
「天皇は制度でもないし、日本人として生まれ、日本人として恩恵を享けていながら、天皇や皇室を否定する理由はない」「それなら、共産主義は絶対かい?共産主義って言ったって矛盾だらけだべ。例えば『赤旗』の値上げは労働価値観じゃなく、売上げ低迷からの値上げで、それこそ資本主義の論理だし(笑)」と言い放つ。
間髪入れず「ソ連なんてのは共産主義はカタチだけで間もなく崩壊するよ。先生よ、公務員の立場でありながら共産主義者、革命家を気取ってて、血税の公務員の給与で家を建てて、安住しながら『革命』もないっての。寅さんら日教組の最高の教え子であり被害者は永田洋子と坂口弘だろ。今は二人は死刑囚だろ」
更に「オレは永田に手紙を書いたことがあるが、先生も永田や坂口に謝罪の手紙でも出したらどうよ」と苦言を呈すと、これに遠藤は激怒し、「ニシャ(貴様)とは話しになんねぇ」と席を立った。
そんなやり取りを聞いてた寅さんは「五郎、オメエは大したもんだな。オレは退職してから建てたが、遠藤四郎は現役時代に建てたからな(笑)」。それから数年後、ソ連が崩壊したのは言わずもがな。
中学時代のこの二人の日教組の先生こそが、愚生が右翼人として生きる切っ掛けを作ってくれたのは間違いないが、そういう意味では右翼に導いてくれた左翼教師二人には感謝しなきゃいけないのかも知れない(笑)
中学時代、親父が持ってくる「月刊・自由民主」という機関誌を、当時はその中身も意味もハッキリと理解出来る訳ではないのだが読み漁った。そんなこともあって「月刊・自由民主」に書かれていることと、担任らが話すことが全く違っててよく口論になった。担任に20発ほど一方的に殴られたこともあったなぁ(笑)
担任の寅彦は常日頃から天皇を否定し、相撲が大好きだった昭和天皇を持ち出して「相撲ってのはバカが取ってバカが観るんだ」と生徒らに吹き込んでた。当時は今の様な大学出の力士はいなかったから、要は中学校しか出ていない力士の学歴をバカにしていたんだろうな。そんな中学2年の国語の授業中に、授業内容とは全く関係なく、いきなり「お前ら、天皇は自分のことなんて言うか知ってるか?」と質問して来た。
同級生一同、「・・・」
愚生、「朕ですよね」
先生、「お~、そうだ、よく分かったな。チンポコのチンだ!」。一同爆笑、愚生は茫然。
ある日には、いつも校長と朝の職員会議でやり合って来るのでいつも機嫌が悪いのだが、珍しくニコニコ顔で入って来て、「今日は、いや~、めでたいめでたい、めでたい日だな(笑)」との一言を放った。
これに何となくピンと来た愚生は、「(ベトナム戦争で)ベトナムからアメリカが撤退するのがそんなに嬉しいの?(笑)」と言ってみた。寅さん、こっちを睨み付け、「お前はおかしんだよ!」と詰る。
いつもこんなだもの口論にもならない。方や親父の自民党というと当時「ローッキード事件」が発覚し、自民党の金権体質が問題になり、また田中角栄の人気にも陰りが見え始めると自民党にも興醒めして行った。
高校は二本松工業高校。当時は進学するなど考えもしていないし、建設会社で土方の監督か、中学時代の人気ドラマ「前略おふくろ様」のショーケンの影響から板前(料理人)にでもなろうと考えていた(笑)
担任が勧める自衛官を「憲法違反の存在ですよ」と揶揄い、親父は「警察は嫌われるし、自衛隊も批判する人がいるが消防士が良いぞ」ということばを深く考えなかった。今考えると消防士が好かったな。
進学に傾いたのは、担任が自分だけには会社を世話しないし、そんな中でシャレで受けた福島県警も不合格だったし、ならば大学を「推薦」して貰って4年間遊びながら将来を考えれば良いかなんて気楽に思っていた。
そんな矢先、右翼団体「国防青年隊」の隊員で国士舘大学の3年生広瀬某による大平総理テロ未遂事件が起こった。記者に変装した広瀬が首相官邸に入り込み、当時の大平正芳総理大臣を襲撃するという事件だ。未遂に終わったが、当時の新聞にはデカデカと報じられ、「元暴走族」「インスタント右翼」などと揶揄されていた。
この事件に感銘を受け、国士舘大学への推薦を願い出るも即却下。担任曰く「日大なら良いが、五郎は、この大学だけはダメだ」を繰り返すばかり。日頃、父から「田舎で勉強するより、都で昼寝しろ」と言ってたのを知っていたので、地元の大学には行く気はなく、しつこく国士舘大学への推薦を迫った。
暫くして、担任も根負けしたのか、「坊主にしたら」という条件で推薦してくれることになった。先生にしてみりゃ絶対に坊主頭にはしないだろうという思惑があったのだろうが、翌日、バリカンで五厘坊主にした愚生を見ると無言で推薦書類を作成してくれたのを思い出すが、日大だったら人生も変わってたかもな。
合格し、先生方の集まる「土木科室」に報告に行ったら、「おめでとう!」という先生はおらず、言われたことは「五郎、右翼にだけは入んなよ。右翼はダメだぞ」だった。先生も分かってたんだろう(笑)
国士舘大学に入学すると3級上の上田崇仁と巡り会う。先輩は防共挺身隊羽田支部にも出入りしていたこともあり、当時は行動右翼というより愚連隊的色合いの濃かった右翼団体の運動に参加する様になって行った。
爾来30余年、微力ではあるが愛国活動に邁進し「右翼の良識」と言われたりもしたが、力及ばず、永年共に行動してきた盟友と袂を分つた。その盟友も幽明界を異にし、防挺も昔の勢いはないのが寂しい。
昨今の保守ブームで新保守主義を掲げる学者や評論家の言動が持て囃されてはいるが、その「保守」に「尊皇」はない。彼等が「保守」したいのは己らの体制であり、要は生業としての現状を維持がベストなのだ。「反中」「嫌韓」「反北朝鮮」だのと耳障りの良いことを言ってるだけで、これが本音とも思えない。
保守主義を否定する訳ではないが、尊皇無き保守では米国や英国の保守政党や保守主義と何等変りは無いのだ。そんな中で、右翼・民族派の存在価値は年々薄れて来ているのは確かだろう。資金不足や指導者不足は顕著で、右翼人なのかヤクザなのか分からない思想は乏しく、考えていることは己の「シノギ」ばかり。
久しぶりに会っても「どう、景気は?」といった具合でうんざりだ。だが、悲観はしていない。必ずや、この混迷、停滞から脱却し、天皇国日本を磐石の安きに導いてくれる「国士」は出現するだろうから。右翼・民族派諸氏は原点に戻り、研鑽を積み、テロを担保しつつ行動を続け、言論活動と啓蒙活動に邁進するべし。
中学校時代にしろ、高校時代にしろ、剣道にしろ、右翼団体時代にしろ、余り良い恩師には恵まれず「師」と呼べる様な人はいない。右翼に入った十代の頃には、厳しくも優しい岩瀬泰雄支部長に鍛えて貰ったが、その岩瀬支部長も商法改正後まもなくして對馬に譲り、引退してしまったのは残念だった。
初代の福田進総隊長はカリスマがあり過ぎて近寄り難く、本や週刊誌で考えを知る程度で、思想などを聞く機会は殆ど無かった。大学を卒業し、故郷に帰還してからも、地元の右翼の重鎮、大日本愛国党の芦名昇盛に教えを乞うたが、分かり切った内容ばかりでイマイチ示唆に富んだものは得られなかった。
三代目総隊長だった故對馬則政然り、右翼浪人でもあった今は亡き横山武彦然り、まぁ逆を言えば素晴らしい反面教師に恵まれたとも言えるのかもなぁ。自由気侭に右翼活動をやらせて貰った御蔭で、組織の柵に関係なく、個性豊かな面々とも知り合いになれたし、右翼団体に拘泥することなく生きて来れた。
恩師には恵まれなくとも、友人には恵まれたし畏友も多い。中でも、30代の始め、故横山武彦を介して、大手警備会社「テイケイ」を立ち上げ高花豊会長と出会ってからは人生観も大きく変わった。
高花会長が支援してくれるきっかけとなったのは、横山と宣伝車を引っ張って鹿児島の知覧を目指す旅を計画したことだった。日々の生活も儘ならず、横山の友人で大手警備会社のテイケイの高花会長から活動費を捻出する目的で、宣伝車には「全国行脚世直し全国遊説隊」なる仰々しい名前を付けて会長の下へ挨拶に行った。
最初は横山と愚生の別々の車両2台で行くことにした。実際は横山と愚生の2人だけなのだが、「若い隊員も数名連れて行くので」と行動趣旨を説明し過分な支援金を頂いた。旅の帰り挨拶へ行くと、高花会長は「今どき、数日と雖も家を空けるなんて出来ない奴ばかりで、2週間も車で寝泊まりして旅を続けるとは大したものだ。来月から私のところに顔を出しなさい」と、その後は物心両面で支えて頂くこととなった。
横山とはその後、宣伝車1台で4、5回は旅をしただろうか。歳は二回りも上だが、妙に馬が合った。横山の故郷は天草で、中学校卒業すると自衛隊に入隊。郡山駐屯地へ配属となり、自衛隊を辞めると大日本愛国党へ入党する。この時期に高花会長と活動を共にすることとなる。愚生が防挺に入隊した時は副隊長だった。
愛国党を経て防挺の副隊長に就くも破門、その後は「野武士会」や「青空議会」を参画し活躍するも天草へ帰還、後に郡山市に本部の在る任侠系右翼団体代表となった。正しく人生とは邂逅であると痛感する。
思想家である高花先生には長きに亘り物心両面で支えて頂いた。この高花先生との邂逅が無ければ、また違った愚連隊右翼の人生を歩んでいたかも知れない。そんな高花先生に言われた言葉を思い出す。
「活動家は長生きすると惨めな生活しか待っていないよ!」
確かにその通りだ。それを証拠に愚生の今月の支援金はたったの5万円。ウソだとと思われるだろうがホントのことで生きてるのが不思議。普通の人なら愚生の様な日々を過ごしてたら自殺するだろうなぁ(笑)
今どき右翼なんぞに協力してくれる様な奇特な人はいない。尤も、本気でやってないし、生きていないのだからタニマチやスポンサーが付く筈もない。「死ぬ気でやれよどうせ死なないから」とは蓋し名言(笑)
インチキ宗教でも信者を洗脳し、左翼もオルグしたり元同志を恐喝したり、行政に入り込んで相当のカネを集めているのに、右翼というのは相変わらず活動費さえ儘ならないのはインチキ宗教以下の存在ということなのだろう。愚生に足らないものは「強烈な努力」であり、不如意はそれ如実に語っている(笑)
高花先生に「最近、パクられてないんじゃないの?」とも皮肉られたことがある。
訝しがってると、高花先生はこう言い放った。
「本気でやれば逮捕されるものです」。この言葉には思わず膝を打った。そういうことだ。本気でやっていないからパクられないのだ。活動家としての基本を忘れ、怠惰な日々に流されているだけなのだ。
「乞食も三日すれば忘れられぬ」ともいうが、乞食は気楽なもので三日もやればそれが忘れられなくなるが、右翼浪人と気取ってはいるが要は乞食と一緒。それより悪いのは自分を乞食と認めようとしないところだろう。実に悪習は染まり易く、それを改めるのは困難を極めるのである。
横山から「乞食でも本物の乞食は信用出来るぞ」と教えられたことがあった。右翼に限らず、何処の世界もインチキばかりが幅を利かす昨今、愚生もホンモノの右翼浪人、ホンモノの一維新者で在りたいものだ。
放浪の旅に出たいという衝動に駆られる今日この頃。河合継之助の足跡を偲ぼうと只見~長岡への逆コースを辿るも途中で断念したのを最後に蟄居が続いている。初心に帰り、旅先の場末の呑み屋で隣り合わせた客との「横議横行」をしたいものだ。地元の肴で酔うほどに心地好くなるくらい愉しいものは無い。
旅をするにも先ずは御足を確保しなけりゃどうしようもない訳で、誰か奇特な方が現れないかな。それを捻出することが「強烈な努力」でしょ。分かってるなら動きなさいな。と今日も徒然なるまゝに綴ってみました。皇紀2680年9月25日記

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