全愛国者は天皇国日本の真姿開顕に奮励前進・捨身奉公せよ!
- cordial8317
- 2024年4月3日
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皇紀2684年、令和6年を迎へ、恭しく聖寿の万歳を寿ぎ奉り、愈々肇国の精神を顕揚し、本年が光輝ある年たらしめんことを堅く誓い、併而、御支援御厚情を賜る皆々様方の御隆昌と御健康を祈念申し上げます。
我が国の政治の混迷の一端は、戦後政治の総括を怠り、結党の精神を忘却し、自己保身と偽善に狂奔して来た中道左派まっしぐらの自民党政治の陋習と国家観無き政治家の怠慢に在ると言っても過言ではない。
今日の祖国日本の重苦しい閉塞感と惨憺たる現況を救う為に我らは何をするべきなのか。要用なのは祖国日本に生きているという自覚と誇り、「我らは日本人である」との矜持を取戻すこと以外にはないと確信する。
政治批評の拙ブログ「爆ちゃん吼える(COMMON SENSE)」のサブタイトルには、敬愛する哲学者・西晋一郎の、「わが民族の将来と国家の前途を思うは人間の最も真剣なる感情であり、君国に忠、親に孝なるは最も現実なる道徳である。之を離れては人類愛も世界的正義も空想に過ぎない」との言葉を記している。
心ある日本人であるならば祖国日本に生を享けた者としてその日本の将来を憂い、心中密かに期するものがあるだろう。それは一体何か、何であらねばならないのか。この心中に在る想いを一言にして表現するならば、世界に比類なき天皇国日本の真姿開顕に奮励前進、捨身奉公するということに尽きよう。
是つまり、皇祖天照大御神が垂示し給う「葦原千五百秋之瑞穂國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之降、當與天壤無窮者矣」との天孫降臨の御神勅を心魂に刻んで日々奉拝することである。
天孫降臨の御神勅は、日本書記で、皇祖である天照大神が、皇孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に対して下した勅であり、日本列島統治に於ける皇室の正統性、皇室及び国の永続性を祝福したものである。
「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)也。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし」と読む。
その意味は「日本国は我が子孫が王たるべき国である。さあ瓊瓊杵尊よ、行って確りとと治めなさい。恙(つつが)なくお行きなさい。天津日嗣(あまつひつぎ=皇位)は、天地と共に永遠に栄えることでしょう」
明治22年2月11日の紀元節に於いて、明治天皇は大日本帝国憲法発布勅語の中で、「惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ」と思召し遊ばされた。
この勅語も天孫降臨の御神勅の精神の継承である。正しく大日本帝国憲法こそが我が国の正統な国法であることの証明でもあり、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」との通り我が国は「天皇国日本」なのである。この御神勅の精神こそが日本国民が肝に銘じ、忘れてはならない万古不磨の大原理大原則である。
南北朝時代の公卿・北畠親房卿は、「皇統正統記」の序論で、「大日本者神国他。天祖ハジメテ基ヲヒラキ、日神ナガク統ヲ伝ヘ給フ。我国ノミ此事アリ。異朝ニハ其タグヒナシ。此故ニ神国ト云フ也。神代ニハ豊葦原千五百秋瑞穂国ト云フ。天地開闢ノ初ヨリ此名アリ。天祖国常立尊、陽神陰神ニサヅケ給シ勅ニキコエタリ。天照太神、天孫ノ尊ニ譲マシクシニモ、此名アレバ根本ノ号ナリトシリヌベシ」と記す。
読み下せば、(大日本国は神の国です。天皇の祖先が初めて国の基礎を築き、天照大神が長らく国を統括してきました。我が国だけがこのような歴史を持っています。他の国々にはこのような例はありません。我が国は「神国」であり、神代の時代は豊葦原千五百秋瑞穂国と言った。天地の誕生の当初からこの名前は存在し、天祖である国常立尊(神に先立って現れた第一神)が陽神(イザナギ)、陰神(イザナミ)に与えた勅(天孫降臨の御神勅)に書かれています。豊葦原千五百秋瑞穂国のまたの名前として大八洲(おおやしま)と言う)
この北畠親房卿の「皇統正統記」もまた日本国民が矜持すべき信念であり、日本人としての信仰であらねばならない。この古より伝えられた日本民族の精神と、道統を受け継ぎ、これを護持し、これを宣布し、そして子孫に伝えるところの責任と使命を有する者は、今を生きる我々日本人であることは言うを俟たない。
然るに、万邦無比の国體と尊厳崇高なる祖国日本の歴史と道統に目を覆い、西洋物質文明に気触れ、共産主義反逆思想に随喜して日本人の本質を自ら喪失し、無機質な人種が増殖する傾向は由々しき一大事である。
江戸時代の国学者である本居宣長は、自著「うひ山ふみ」の中で、「やまと魂だによく堅固(かた)まりて動くことなければ昼夜からぶみをのみよむといへどもかれに惑はされるうれひはなきなり」と教示している。
「からぶみ」とは「西洋気触れ」ということである。現代人も同じく、「やまと魂だによく堅固まりて」どころではなく、高邁な日本精神を忘却してしまった。国内には未だに米国の占領政策の洗脳から目覚めることなく、米国や中共の走狗となった不逞の徒輩の策謀に因って大和魂の基盤そのものが逐次掘削されている。
政治家どもは国家の大本を忘却し、経済至上主義に現を抜かし、祖国日本は消滅寸前の様相を呈している。この迫り来る祖国の危機に対処し、天皇国日本を盤石の安きに置く使命を有するものは我ら日本人である。その存在の意義を示す神機は近付きつつある。さあ、その一旦緩急に備え遺憾無きを期そうではないか。
念頭に当り、正統右翼浪人として、貧すと雖も志士の覚悟を忘却することなく、一維新者として草莽の道を一途に歩んで往こうと思っております。「往く道は精進して 忍びて終わり悔いなし(高倉健)」。本年も引き続き、御指導御鞭撻を賜ると共に拙ブログに御付き合いの程宜しく御願い申し上げます。すめらぎいやさか。皇紀2684年 歳旦
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