「英将秘訣」を読んでるとくだらん悩みなんぞ吹き飛んでしまうわ。呵呵
- cordial8317
- 2024年4月7日
- 読了時間: 7分

「英将秘訣(えいしょうひけつ)」を知ってるだろうか。志士を自任する右翼人なら知らない人はいないだろうが、これを読んでると組織にしがみ付いたり、くだらない悩みや執着というのがアホ臭く感じる(笑)
「日月はあまり役に立たぬものなれども、日は六時の明(あか)り也。月は夜の助けにもなる歟」から始まる「英将秘訣」を世に出 したのは千頭清臣著「坂本龍馬」(初版1914年)とされ、「坂本竜馬全集」と「坂本竜馬読本」(新人物往来社1985年)の「英将秘訣」も、この千頭清臣著「坂本龍馬」からの出典である。
「英将秘訣」は、この「坂本龍馬説」と、「平田篤胤説」があるが、愚生的には平田篤胤説を信じている。「世に生利を得るは事を成すに在り」という台詞を以て龍馬説を唱えるのは些か単純にも思え、愚生が思うに龍馬にしては発する言葉が違う気がしてならないのだが、それはそれで感じ方は人夫夫。
平田篤胤は、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)といった所謂、国学者の四大人(うし)の一人であり、右翼人の中でも平田信奉者は少なくない。
博学多識で知られた篤胤であるが、幼少の頃は才能には恵まれて無かったらしく、18歳になっても未だ「四書五経」、つまり「論語」や「易経」などという当時の武士の基本的教養書を理解することもなく、親からも「武士失格」の烙印を押され、袴を着け、帯刀することを禁じられてしまったというから前代未聞。
そんなこともあり、篤胤は一念発起し、出羽国秋田から江戸へ向かう。旅の途中、雪の山中で遭難しかかったのだが、この時に異人から何やら特殊な霊法を伝えられたという。というのも、江戸へ出てからの篤胤は、以前の彼とは打って変わった様に古今東西のあらゆる本を読み解き、それを記憶し、時には著述に入ると一週間位は不眠でそれを成し遂げるという通常の人には考えられない様な能力を発揮し始めたという。
江戸に着いた篤胤は、備中国松山藩士の平田篤隠(あつやす)に認められ、その養子となり、松山城主の板倉公に仕えた。その後、国学者の本居宣長の著書に接し、深く感激し、その門に入った。
篤胤と宣長は現世で会うことはなかった。篤胤は、宣長没後の門人として、その学問を受け継ぎ、古(いにしえ)を明らかにし、皇道を遍く天下に広めることをもって自分の使命とした。以来着々と著述を進め、且つ門人を集め古道を唱道した。全国神社会は平田篤胤の「復古神道」を以て統一されたのである。
徳川幕府を倒し、明治維新の指導原理となり、また今日の民俗学や霊学、心霊研究などのオカルト的なものまでに大きな影響を与えたものが 篤胤の「復古神道」である。その主張は、両部、伊勢、吉田、吉川、垂加神道に雑じっている、インドや支那の教えや説を取り除き、神道の純粋性を保とうとするところにあった。
「国学」とは、日本の古典を有りの儘に吟味して、古典に込められている純日本的精神を追求した学問であり、つまり中世以来の、儒教、仏教等を拠り所とするこじ付け的な日本古典の研究に反対するものである。
復古神道の成立に決定的な役割を果たしたのが、本居宣長とその弟子を自任する平田篤胤である。宣長は、僧・契沖(けいちゅう)の書物に出会って古道を学び、その後に賀茂真淵の著述に触れる。真淵は、宣長を自らの志を引き継ぐ人物として入門を許し激励したという。この時、真淵67歳、宣長34歳であった。
宣長は師と仰ぐ真淵の期待に応えようと、只管「古事記」の研究に没頭し、終に57歳の時に「古事記伝」を完成する。実に、宣長の一生とは「古事記」の注釈に注がれたといっても過言ではない。
宣長は72歳で没するが、宣長の没後に宣長の教えである古道思想を継承し、これを神学的に発展させたのが平田篤胤である。篤胤は68歳で没するが、その一生に著した書物は驚くべき数に達している。その中で神道の中心をなすものが、「霊能真柱(たまのはしら)」と「古史伝」であり、右翼人なら必読の書である。
「霊能真柱」では、人が神の道を実践する為には、先ず大和心を固めなければならず、死後の霊魂の行方が解明されなければならないとし、その為には天地の形成過程を知り、神の功徳を認識し、日本が万国の本源の国であり、全てに於いて優れた国であり、天皇が最高の存在であることを十分に知らなければならないとする。
「古史伝」は、自らの古伝を纏めた「古史成分」の注釈書であるが、「霊能真柱」の考えをより発展させたものである。篤胤の著述の中に一貫する「日本本源論」や「皇国尊厳論」は大いに注目すべきもので、右翼人の学ぶべき教えがそこに在る。また、篤胤の学問の範囲は非常に広く深く、独創的である。
篤胤は、幽冥界についても深く研究し、神界と現界の関連、霊魂、神仙の存在に関する書物を多く書き著して、その後霊や神仙などを研究や修行する者に多大な影響を与えた。 篤胤は、近代日本のオカルティズムの創設者とも言える存在であり、昨今の霊能力者や占い師などの源流は篤胤であるとも言える。
そうしたことから「英将秘訣」もその論は独創的でもあり、カルト的であり、坂本龍馬というより平田篤胤のものではないかと考えるのだ。90の条文から一部摘記してみよう。(一部現代語に修正してます)
一、親子兄弟と雖も唯執着の私なれば、蠢虫(うじむし)同様の者にして、愛するにも足らぬ活物也。
況や夷人をや。
一、本朝の国風、天子を除くの外、主君と云ふ者は其世の名目也。
独夫なれば、やがて予(われ)主人と為るは唐の例也。聖人の教也。
猶ほ物の数とも為す事勿れ。
一、予が身寿命を天地と共にし、歓楽を極め、人の死生を擅(ほしいまま)にし、
世を自由自在に扱ふこそ産れ甲斐は有りけれ。何ぞ人の下座に居られん や。
一、大悪の限りを為さんとしても、少しは善の出来ねばならぬもの也。
物の理合は万品同じがるべし。
一、俸禄などいふは鳥に与ふる餌の如きもの也。天道豈(あに)無禄の人を生ぜん。
予が心に叶はねば、やぶれたる草鞋を捨つるが如くせよ。
一、予に随ふ者は生捕同然、予に不随者は皆讐敵と見て、心を許す事勿れ。
一、博奕の類は一ものがす事なく心得置くべし。されど小芸にて人智をためす也。
拙(つたな)し。
一、予死する時は、命を天に返し、位高き官へ上ると思定めて、死を畏るゝ事勿れ。
一、世に生利を得るは事を成すに在り。人の跡を慕ひ、人の真似をする事勿れ。
釈迦、孔子の類、唐土の世々の天子も皆しかる事をせり。
一、義理などは夢にも思ふ事勿れ。身を縛らるゝもの也。
一、耻と云事を打捨てゝ世の事は成るべし。使ひ所によりては却って善となる。
一、なる丈け命は惜しむべし。二度と取かへしのな らぬもの也。
拙きと云事を露斗(つゆばか)りも思ふ勿れ。
一、盗賊と世に云者は、予世を見るの手遊なり。歴代にさせて心を慰る所也。
一、薄情の道、不人情の道、忘るゝ事勿れ。
是を 却而(かえつて)人の悦ぶ様にするを大智といふ。
一、礼儀など云は、人をしばるの器也。世をしめかためて吾が掌中に入る具也。
一、涙と云は、人情を見する色也。愚人、婦女子に第一の策也。
一、忍は知らせぬを主とす。事を成就するを本意とす。
一、事は七八分成就の時を大切とす。必ず気を許す事勿れ。
征夷の大将も帰るさには疲るゝ事あり。
一、釈迦、空海、義経、正雪等奇術を知りて世を扱ふとも、何れも小智短才の者也。
日本にては神武天皇、唐にては泰始皇が如き天下を併呑する大量を以て、
加之(しか)も彼の術も亦存せば、地球に名ありて後世に及ばんか。
一、学問の道他なし、只生死の情を察する而己。
一、天文を覚り、地理を握る、人意を併呑する一術也。
一、天下の人倫悪を好めば善にうとし。善を行へば悪ににぶく、両不全を英将の不具とす。
一、気の弱きは善多く、気の強きは悪多し。
一、信長は天下の人々高位を望で朝廷の取次をせば、国中の人我に従ふ決定(けつじよう)を知りたり。
一、太閤は、受嗣ぎて官位を取次ぐ。斯くて取り次げば家来も同様かく行也。
一、家康は、最早天下は天下に還るフリあり、天子を以てタヽキて是を矢玉にさへ使はゞ、
公の如く吾天下を自在にすべしといふ事を知りて、行ひたる也。
故に口には忠を云て身には自在を行ひたり。
愚生的には「俸禄などいふは鳥に与ふる餌の如きもの也。天道豈(あに)無禄の人を生ぜん。予が心に叶はねば、やぶれたる草鞋を捨つるが如くせよ」「予に随ふ者は生捕同然、予に不随者は皆讐敵と見て、心を赦す事勿れ」「義理などは夢にも思ふ事勿れ。身を縛らるゝもの也」「涙と云は、人情を見する色也」が好い。 正に示唆に富んだ名文揃い。「英将秘訣」を読んでると、俗世界のくだらん悩みなんぞ吹き飛んでしまうわ。呵呵。
ザ・右翼ジャーナル社々主 佐久間五郎
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