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財力に諂わず権力に屈することなく正しいものを正しいものとしてどこまでも信念を押し進めて行きたい(五代目山口組若頭・宅見勝)

  • 執筆者の写真: cordial8317
    cordial8317
  • 2024年4月3日
  • 読了時間: 3分

 最近は「保守ブーム」だという。確かに反日左翼に対抗はしているが、保守とは違う気がしてならない。新保守主義を掲げる学者や評論家が持て囃されてはいるが、その保守に尊皇はなく、「保守ブーム」に便乗した営業保守というのが正しい。


 偉業保守や学者等が保守したいのは己らの今現在の体制でしかない。要は、生きる為の生業としての現状を維持することが彼らの本音だろう。政治家もまた然り。


「反中」「嫌韓」と煽っては、自称・愛国者らへ耳障りの好いことを言ってるだけで、これがホンネとも思えない。尊皇無き保守では、米国や英国の保守政党や保守主義と何等変りは無く、それは単なる新保守主義であり、グローバリズムである。


 そんな中で、右翼民族派陣営の存在価値も年々薄れて来ているのは確かだろう。資金不足と指導者不足は顕著であり、生き方も右翼人なのかヤクザなのか分からない。


 思想は乏しく、政治にも疎く、考えていることは己のシノギばかり。久しぶりに相対しても、政治思想よりも「どうよ、景気は?」といった具合でうんざりする。


 教育勅語の教えである、恭倹己を持することなく、「オレが、オレが」が横行する。居の安きを求めて生活してりゃ、思想どころか学問さえ学ぶことは無い。


 江戸時代の思想家で石門心学の開祖である石田梅岩は、「学問とは、人倫を明らかにし、身を敬み、義を以て君を尊び、仁愛を以て父母に事え、信を以て友に交わり、広く人を愛し、貧窮の人を憐み、功あれども伐(ほこ)らず、万事約を守り、家業に疎からず、入るを量って出すことを知り、法を守って家を治めること」と教える。


 右翼思想とは別に愛国心の高揚だけではなく、恭倹己を持しと同じく、功あれど誇らず、尊皇精神を逞しくして、一旦緩急に備えて精神の高揚を学び備えるべきだ。


 一日一生は名ばかりで、自分のことが精一杯で、信を以て友に交わらず、貧窮の人を憐れむことない右翼ばかりだが、悲観はしていない。必ずや、この世の混迷と停滞から脱却し、天皇国日本を磐石の安きに導いてくれる国士は出現するだろうから。

 右翼・民族派諸氏は維新者としての原点に戻り、研鑽を積み、テロを担保しつつ行動し、啓蒙活動をして貰いたいものだ。まぁ、右翼から退いた右翼絶望派の愚生ではあるが、現今の右翼や自称愛国者よりは懸命に生きていると自任している。


 団体を辞して今更乍ら思うことは、人というのはどれだけ生きたかではなく、どう生きたか、どう生きるかが大事だということ。こんなことをしみじみと考える。


 野村秋介の遺した「自問自答の訓」というものがある。


 常に世俗にありてその一隅を照らし

 常に在野にありて権力悪と闘い

 常に人々を愛し共に涙を流し

 常に海を愛し空を愛して神々を敬い

 常に友情と信義を胸中にして熱く燃え

 常に名利を求めず正義を追い

 常に月を愛し酒を愛し女を愛し

 常に自由にして奔放であり

 常に一剣を懐中にして平天下を願う


 この訓を読めば、野村秋介というのは浪漫派だったのだと改めて思う。


 愚生も、常に自由で奔放ではあるが、一隅も照らすものも無し、これほどまでにカッコイイ生き方は出来ないだろうが、右翼人生を歩んでる一人として、酒を愛し女を愛し、常に自由にして奔放な無頼派右翼で在りたいとは常々思っている。


 宅見勝という伝説のヤクザが遺した言葉がある。


 生ある人生が

 いつかは必ず来るべき死を

 約束づけているなれば

 俺は法律が

 どう変ろうが

 社会の常識が

 どう変ろうが

 財力に諂わず

 権力に屈することなく

 正しいものを

 正しいものとして

 どこまでも俺の信念を

 押し進めて行きたい





 どちらかというと、削げ者右翼を自任する愚生は野村秋介の訓えよりも宅見勝の方が性に合う。草莽の右翼浪人ではあるが、こんな生き方を全うしたいものだ。

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