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汝、ゆめ晴天の友となる勿れ、雨天の友となれ!

  • 執筆者の写真: cordial8317
    cordial8317
  • 2024年7月19日
  • 読了時間: 4分

過日、日暮里在住の畏友から鬼子母神の入谷朝顔市の鉢植えが届いた。もう何年になるだろう。団体を辞して以来、兄弟分やら舎弟分やら諸先生方、諸先輩などが離れて行く中で、昔と変わらず付き合ってくれる友がいるというのはホント有り難い。


 クーラーが無い拙宅では朝顔は正に一服の清涼剤である。だが、昨年の猛暑は朝顔と扇風機では対処出来ずに夫婦共に熱中症になり罹りエライ目に遭った。流石に今年はエアコンが無いとヤバそうなのでジャパネットたかたに世話になりました(笑)


「汝、ゆめ晴天の友となる勿れ、雨天の友となれ」という言葉がある。天気の良い時というか、順調な時にだけは付き合うが、少し具合が悪くなると、いつの間にか遠ざかって寄り付かなくなる。こういう付き合いを「晴天の友」という。


「晴天(順調な人生)の人と友達になろうとはするな。寧ろ雨天(苦難に直面)の人に心を寄り添える様な人間になろう」という意味だが、人間落ち目になったりすると遠ざかって行くのは常。人というのは多くは権威主義だから当然のことでもある。


「人の痛みの分かる人間になれ」というが、人の痛みなんぞそう分かるものではなく、他人の痛みというのは所詮は他人事。愚生も64年生きて来たが、痛み(苦労)を分かるのは両親や女房くらいなもので、そんな御仁に御目にかかったことも無い。


 いたとしても、相手の悩みや苦しみを聞いて、如何にも同情しているフリをしているに過ぎない。そういうヤツに悩みや弱みを見せれば、単に恥を曝すことにもなり兼ねない。「人の不幸は蜜の味」ではないが、それが人間の性でもある(笑)


 出世出来ないのも、設立した会社が倒産したりするのも要は実力が無いからに尽きる。そんな弱者に寄り添ってくれる人など世の中にはいないと思った方が好い。


 逆境やピンチになると、人というのは潜在能力を発揮するものなのだが、その逆境やピンチを避けてしまったり、悩み事を直ぐに吐露するというのは如何なものか。


 人間というのは精神が弱い故に誰かに縋りたくなるのだろうが、困難を経験することでその先に繋がるのも確かなこと。それらの悩みや困難を避けてどうするのか。眼前の悩みなんぞ死に逝く特攻隊員の渾身の悩みに比べればどうってことは無い。


 苦難とは危険を教える慈悲の鞭でもある。幸福と苦難は表裏一体であり苦難の本質を弁えれば、人生の苦難や悩みとはやはり天の与えた試練と考えるべきだ。


 未だ起きてもいないことに、また将来のことを気に病んでいるよりも、今日一日を本気で真剣に生きることに心血を注げ。「一日一生」とはそういうことである。


 人というのはどうしても自分よりも強い者には媚び諂うが、自分より弱い者や自分の能力より劣る者には強気に出るし、外見や肩書などで見下したりする。


「弱きを助け、強きを挫く」のが仁侠道だが、今やそうしたヤクザはおらず単なる暴力団と化してるが、社会全体も弱い者が淘汰される「仁義なき戦い」そのもので、社会構造そのものが自己中心的で金銭欲逞しい暴力団とどっこいどっこい。


 ヤクザというのはそうしたことを理解しているから見栄を張る。高級車を乗り回し、仕立物の背広を着て、高給時計を身に着けては偉くなったと勘違い。


 組織の名刺ひとつでも貫目が違えば見下し、上の者には諂屈する。漢(おとこ)の世界などとカッコつけたところで、所詮は見かけ倒しの世界でしかない。今や右翼団体もその任侠道とは程遠い暴力団傘下に甘んじているのだから何かを況んや。


 要するに、現代に生きる人というのは外見や肩書でしか判断しないし、そうした者にとっての価値感というのはその程度のものなので気にする必要もない。


 愚生の嫌いな輩というのは「貧銭を以ってこれを軽蔑する者は 富貴を以ってこれに諂屈する(吉田松陰)」という手合い。こういう手合いが暴力団や右翼の世界にはうじゃうじゃいる。こういう輩は何事も掌返しが御上手で晴天の友ばかり(笑)


 そういう意味では幼馴染みや同級生というのは貴重な存在で、ノンポリで政治のことなんぞ知らないが、会えばいつも同じに接してくれる。順調な時も、そうでない時も同じ様に接してくれる友が一人でもいてくれたら人生捨てたもんじゃない。

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