日本人の心の奥底には神道の随神(かんながら)の教えが根付いている
- cordial8317
- 2024年4月5日
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明治元年(1868)年、新政府は「祭政一致」を前面に掲げ、「神仏分離令」を布告し、仏教勢力の一掃を図り、その結果、廃仏毀釈運動が全国的に広がった。
廃仏運動の急先鋒となったのは、比叡山延暦寺の支配下にあった東京の「日枝山王社(日枝大社)」。神仏習合の神社である京都の「祇園社」「石清水八幡宮」「愛宕大権現」は、夫々「八坂神社」「男山神社」「愛宕神社」に改称させられた。
明治3年には、明治天皇拠り「大教宣布の詔」が出されると、神道を国家統合の精神とする天皇中心の近代国家の道を進んで行くのであるが、これは天皇の政治利用と捉えられても致し方なく、後の所謂「天皇制」批判に繋がったと言われている。
神社は内務省が管轄し、「欽定憲法」と「教育勅語」と相俟って国民に広く浸透することとなり、以降、明治神宮、平安神宮、橿原神宮、湊川神社、吉野神社、靖國神社などの格式の高い神社が創建され、「忠君愛国」の奨励が勧められた。
昭和20年、我が国が敗戦すると、GHQ下で次々と占領政策が謀られる。米国は「国家神道が戦争を誘発させた」として、所謂「神道指令」を出して国家と神道の分離を実施する。これに由り、国家管理の神社制度が崩壊することになった。
靖國神社や全国の護国神社も例外ではなく、「神道指令」を免れる為に已む無く御祭神を一時的に別なものにした苦肉の策であった。だが、主権回復後も「宗教法人」格は見直されない儘に放置され続けていることは正に政治の怠慢そのものである。
戦後、我が国はGHQのあらゆる施策を検証することなく、国家の大本である国家の防衛を米国に依存し、まやかしの平和と魂無き繁栄に現を抜かして来た。日本人は経済的に豊かになればなるほど、反比例して人心の荒廃は顕著となって行った。
どんなことをしても「儲かれば善」という拝金主義が蔓延し、自分さえ良ければ好いといった自己中心的な国民が多くなってしまったのは、統治下の言論統制や教育制度の改革で「教育勅語」に代わる倫理的な規範が無かったことにも起因している。
自然環境と不離一体の神道の精神もまた、荒廃した時代にこそ尤も必要な教えであると考える。抑々、日本人の信仰である「神道」とはどういうものか。
「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就きて治せ。行ませ、宝祖(あまひつぎ)の隆えまさむこと、当に天壌(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし」(日本書紀)
自然は、人智の及ばない大いなる存在である。雷雨や日照りや嵐を人間は制御することは不可能。人々は、自然を征服すべく挑み続けるか、自然と共に生きて行くかなのだが、賢明なことに先人は共生することを選び、我々もその道を選んできた。
自然は暴れ回り甚大な被害を与えたりもするが、同時に無限の恵みを齎してくれる。そこで人々は、自然の織り成す新羅万象を「神」と呼び、豊穣を齎してくれた「神」を称え、荒ぶる「神」を畏れ、鎮め、人々は「神」と共に生きて来た。
新羅万象の全てが「神」の姿で現れる。山の神、海の神、或いは岬、谷、森、川、石、岩水・・・、そして人間でさえも神の在る景色の一部に過ぎず、これこそが八百万(やおよろず)の神であり、その教えが「神道」なのである。我が国固有の信仰である神道とは、こうした世界観から生まれた随神(かんながら)の道である。
日本人の心の奥底には神道の随神の教えが根付いている。一方で、仏教的価値観が事の善悪や行動の指針にもなっている。「宿命」とは仏教の教えであり、それを仏教では「宿業(しゅくごう)」とか「宿世(すくせ・しゅくせ)」と表現する。
「宿業」や「宿世」とは「生きる上で、自分の力ではどうにも出来ない過去に制約を受けているのだからどうしようもない」という開き直りや諦めの理由となる。
仏教には、「目の前にある状況は何らかの原因で起こっていることであり、この状況も何らかの原因となって別の結果を生み出す」という思想が根本にあり、それを「縁起(えんぎ)」という。「因果応報」とか「悪因悪果」というのがそう。
「自分が知らぬ過去に因って決められているので自分ではどうしようもない。自分の死後も、自分でもどうなるかは分からない、死後は仏の世界に導かれる」との教えから、日本人は己の生涯ではなく、過去と未来にも想いを巡らせる様になった。
仏教とは現世利益を与えてくれる恩恵の神という捉え方。LGBTQの連中は「自分一代の生涯ではなく、過去と未来にも想いを巡らせる」という考えが足らない。
「源氏物語」は、主人公である光源氏を中心に様々な恋が「宿世」として捉えられている。男女が出会うのも「宿世」なら、求愛も「宿世」である。要は、不倫なんかも、過去の導きから生まれた「宿世」ということになると考えられるな(笑)
「宿業」「宿世」の考えは「自分の力ではどうしようもない」との開き直りや諦めに繋がったのも事実。平安時代「仏の道が衰え、悪が横行する世になる」との「末法思想」が流行する。宗教とは正に流行であり、流行とは病気の意味である。呵呵。
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