君、狂え給え!(吉田松陰)
- cordial8317
- 2024年4月4日
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画像は、愚生が所属していた防共挺身隊の初代総隊長・福田進の父であり、「進め社」「日本労農党」の福田狂二(素顕)である。如何にも国士の面構えだ。
中核派の「前進社」も、この「進め社」のパクリ。国内では警察や国権から弾圧を受けて、支那に亡命。その後、国共戦を経て蒋介石と共に台湾へ転進する。
伝説の日本人革命家であり、左翼にも狂二の信奉者は少なくない。大江志乃夫著「凩の時(筑摩書房、1985年/ちくま学芸文庫, 1992年)」の主人公でもある。
日本に帰国すると名を「素顕(そけん)」と改め、国家社会主義者に転向し「防共新聞」を創設、主幹となる。その行動部隊が愚生が所属した防共挺身隊だ。
「狂」という字を「頭が狂った」と捉える人が殆どだが、「狂」とは陽明学の「狂」であり、「狂」の思想は王陽明が「伝習録」で訓えたものと言われている。

陽明学を実践した偉人といえば越後藩家老の河井継之助。「越(ほくえつ)の蒼竜」と称され、幕末に於いて長岡藩の近代化に努力した英雄であり、愚生が最も尊敬する武士である。長岡藩士120石取りの代右衛門秋紀の子として生まれる。
幼少の頃から腕白で、人の忠告を素直に聞かない強情張りであった。そうした性格は大人になってからも変わらなかったという。少年時代は、藩校で古義学(こぎがく)を学び、成長するとともに実践重視の「陽明学」へと傾倒していった。
17歳の時に継之助は、鶏を裁いて王陽明を祭る祭壇に鶏肉を供え、人民と藩是の為に立志し誓明したという。青年期には読書に没頭し、良書を見つけるとその書だけを何度も読み返し、一字一句を書き留め暗記し、我が身の行動の規範と成した。
嘉永5(1852)年、継之助は江戸に遊学し、佐久間象山、古賀謹一郎に師事。だが、象山の尊大さと理屈を捏ねる腹の曲がり具合が気に食わず遠ざかった。
継之助が生涯を通じて敬服した人物は、備中松山藩の儒者・山田方谷。自ら松山藩まで足を運び、直接、方谷から陽明学を学び、藩政改革の方法を習得したという。継之助は、方谷を「希代の英雄」と讃え、方谷が唱える思想を熱心に学んだ。
方谷は後に、「河井は豪すぎる。豪すぎることが幸福な結果になるか、不幸を呼ぶか」と語ったというが、結果は後者の方であった。1ヶ月半ほどの遊学であった。
別れの朝、継之助は対岸の街道の路上に土下座し、師匠の小さな姿を伏し拝んだ。人を容易に尊敬することのない男が土下座したのは生涯これが最初で最後だった。
陽明学とは、簡単に言えば「知行合一」という教えである。「言葉にしたことは必ず実行する」という「知行合一」は極めて陽明学的思考である。逆を言えば、「実行できるかどうか分からないことは言葉にしない」ということでもある。
自分の発言には自ら責任を課していることを意味する。陽明学は、先ず「志を立てる」ところから始まり、その志を「行動に昇華する」ことで終結する。
つまり、例えば政治家を志すにしても、自分の言葉に責任を持ち、自らが率先垂範して国民の模範となることが大事であり、そしてそれは親に対する孝と国に対する忠であり、「忠孝」が源でなければならないのは言うまでもない。
陽明学は、人間の格位を「聖賢」「狂」「狷(けん)」「卿愿(きょうげん)」の四つに分けている。孟子はこれを注釈し「聖賢」とは知識・人格に優れた人物。
「狂」は理想主義。「狷」は不潔を潔しとしないもの。「郷愿」は世俗と歩調をあわせた風俗とし、徳の賊(道徳家を装って郷里の評判を得ようとする俗物)だとした。
要するに、「狂」というのは、「理想を高く持ち、何の虚飾も隠し立てもなく、心の赴く儘に率直に行動すること」であり、分かり易く言えば、「一心不乱」ということである。一つの信念に向かって脇目もふらずに突進することである。
また、「もし過失があれば改めさえすればよい」とする臨機応変的なものでもあり、世俗社会の常識に対し果敢に挑戦する「実践的理想主義」とも言えるのだ。
自分の行動を「狂挙」と敢えて言える為には、歴史を見つめる「冷静な目」が必要である。この「狂」の精神こそが、明治維新への道と切り開く転換点となったと言っても過言ではないが、一部の志士には狂った者もいたのも確かだろう。
旧来の思想や社会構造を打破しようとする時に生まれる常軌を逸した行動こそが、「正気」の「狂気」であり「狂挙」である。それは山口二矢、三島由紀夫と森田必勝、更には野村秋介らの行動こそが狂気という正気の行動である。
この「狂気」の「狂挙」こそが、現状打破の大きな力となり得るのだが、愚生を含め、右翼民族派に「狂気」という言葉はない。つまりは本気さが足らないということ。吉田松陰も、こう訓えているではないか。「君、狂い給え!」。呵呵。
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